1.コロナ禍下に散ったスシャント・シン・ラージプート
インドも昨年、今年と、新型コロナウィルスの感染拡大に苦しめられた。映画界でもこの約2年の間に、多くの人が亡くなっている。新型コロナウィルスの感染によっては、ラジニカーントの歌の吹き替えで知られる人気歌手S.P.バーラスブラマニアム、『ダバング 大胆不敵』などを担当したデュオ音楽監督の1人ワージド・カーン、『裁き』で老歌手を演じたヴィーラー・サーティダルらが命を落とした。それ以外にも、ガンで亡くなったリシ・カプールやイルファーン・カーン、老衰で亡くなった大物俳優ディリープ・クマールら、訃報が相次いだ。そんな中でもとりわけ人々にショックを与えたのは、昨年6月に伝えられた若手人気俳優スシャント・シン・ラージプート(以下スシャント)の訃報だった。
スシャントの自殺のニュースは、2020年6月14日にインド全土を駆け巡った。その日の昼頃、ムンバイ北部の映画人が多く住む地区バンドラにある自宅で、スシャントが縊死しているのが発見されたのである。発見したのは同居していた友人で、警察に通報し、また家族にも知らせた。スシャントはビハール州の州都パトナの出身だが、実家はスシャントの母が2002年に亡くなった後デリーに居を移していたという。いずれにせよ、スシャントは1人でムンバイに住み、浮き沈みの激しいボリウッドの中でトップスターを目指していたのである。
検死の結果は自殺と判定され、疑わしい点もなかったのだが、この後彼の死をきっかけに様々な問題が噴出する。その一つは、スシャントが鬱病を患って医師にかかっていたとの情報から、そこまで彼を追い込んだのは「ネポティズム(縁故主義)」だという声が上がり、何人かの映画人が非難の的になったことだ。確かにボリウッドには、親や親族が映画関係者というスターが多い。反対に言うと、そういうコネがないとなかなかスターになれない、ということなのだが、スシャントはそんなコネのある人物たちによって、映画出演の機会を何度か奪われたと言われている。こうして、その少し前に吹き荒れた#MeToo旋風に代わり、#Nepotism旋風がボリウッドに吹き荒れることになった。
このほかにも、スシャントの恋人だったリア・チャクラヴァルティーに麻薬使用疑惑が出て、スシャントも麻薬に関係していたのでは、と言われるなど、彼の死は様々なトラブルを表面に出した。いずれも現在は沈静化しているが、こういう騒動も彼の死がインドの人々に与えたショックを物語っている。
スシャントの葬儀は6月15日に、バンドラに近いヴィレ・パールレの火葬場で行われたが、この日彼の遺体が自宅から運び出される頃、激しい雷雨が街を襲った。火葬場の戸外では、『きっと、またあえる』(2019)の共演者であるシュラッダー・カプールやセクサ役のヴァルン・シャルマーらが、雨の中、傘をさしてずっと立ち尽くしていた。1986年1月21日生まれで34歳だったスシャントは、『きっと、またあえる』で演じた父親の気持ちを自らの父に味わわせて、旅立っていったのである。
2.華々しいフィルモグラフィー
スシャントの葬儀には、彼の映画デビュー作『わが人生3つの失敗』(2013)の監督アビシェーク・カプール、そして遺作となった2020年の『ディル・ベチャーラ』【11月29日~12月28日配信】の監督ムケーシュ・チャーブラーも参列していた。
『わが人生3つの失敗』は、クリケットクラブを作ろうとする3人の青年たちの話で、2013年の大阪アジアン映画祭で上映された。主人公の3人はスシャントとラージクマール・ラーオ、そしてアミト・サードが演じたが、スシャントは3人の中では背がひときわ高く、ハンサム度も一番で、スターになる条件が揃っていることが見て取れた。2002年のグジャラート事件(ヒンドゥー教徒の巡礼列車焼き討ちに端を発した宗教紛争)も盛り込んだこの作品は注目を集め、スシャントに複数の新人男優賞をもたらして、彼のデビューを飾った。
その後2014年には、ラージクマール・ヒラーニー監督の『PK/ピーケイ』にも出演するが、冒頭と最後の短い出演シーンだったにもかかわらず、強い印象を残すことになったのはご承知のとおりだ。日本では2016年に公開されたが、ラスト直前のスシャント出演シーンに涙腺を決壊させた人も多かったに違いない。こんな風にスシャントは、作品に恵まれた新人時代を過ごした。
続いて2016年公開の『M.S.ドーニー』【2022年1月13日~2月11日配信】が、スシャントにさらなる幸運を運んでくる。実在の人気クリケット選手M.S.ドーニーの半生を描いたこの作品は、クリケット王国のインド人たちを熱狂させた。本作は2016年のボリウッド映画興収第4位にランクインし、スシャントはトップスターの1人とも目されるようになるのである。
同じ2016年の興収第1位は、ニテーシュ・ティワーリー監督の『ダンガル きっと、つよくなる』だったが、同監督が次回作『きっと、またあえる』で主役に選んだのはスシャントだった。日本公開は2020年8月で、名門工科大受験に失敗した息子が自殺未遂を起こして重傷を負い、彼を大学受験の呪縛から解放しようと、父親とその友人たちが大学時代の思い出を語る、という内容である。群像劇ではあるのだが、スシャントとその恋人リケジョ役のシュラッダー・カプールが核となり、ヴァルン・シャルマー始め個々人の個性的な演技が光る作品で、その年の全インド興収トップ20にもランクインした。
以上のほかにも、サイフ・アリー・カーンと前妻アムリター・シンの娘サーラー・アリー・カーンのデビュー作『Kedarnath(聖地ケーダールナート)』(2018)や、映画評論家たちから高い評価を受けた『Sonchiriya(金の鳥)』(2019)など、華々しい作品歴を持つスシャントだが、『きっと、またあえる』に続く作品は、『DRIVE ドライヴ』(2019)というネットフリックス配信作品となった。まだコロナ禍の前だったで、この変化に不審を抱いた人もおり、それが彼の死後の#Nepotismへと繋がる一因となったようだ。
3.遺作となった『ディル・ベチャーラ』
『ディル・ベチャーラ(やるせない心)』(2020)は、アメリカ映画『きっと、星のせいじゃない。』(2014)のリメイクである。ハリウッド版は原作小説の映画化権を20世紀FOX傘下のFox2000が獲得し、世界中でヒットさせた。ボリウッドでも早くからリメイクが考えられていたそうで、ディズニーの傘下に入ったメディア会社スター・インディアの映画部門フォックス・スターが製作を手がけた。
ほぼ忠実なリメイクだが、主人公たちはオリジナル作品のティーンエージャーから、もう少し年上の大学生に変更されている。彼らが会いに行く憧れのクリエーターも、オリジナル作品の作家からシンガー・ソングライターに、会いに行く場所もオランダのアムスからフランスのパリへと変えられているが、主人公2人がガン患者という設定は変わらない。そして本作は、キジーというユニークな名前のヒロインを演じたサンジュナー・サーンギーが光る作品となった。彼女は日本でも公開された『ヒンディー・ミディアム』(2017)で、主人公の妻の若い頃を演じてチラと出演していたのだが、印象は薄かった。それが本作ではとても輝いて見えるのは、スシャントが上手に受けの芝居をしているからだろう。
本作はインド東部ジャールカンド州のジャムシェドプル(ジャムシェードプル)が舞台で、キジーの家庭をベンガル人家庭に設定している。従って、セリフに時々ベンガル語が混じるのだが、キジーの両親を演じているのがベンガル語映画のベテラン俳優サースワト・チャテルジーとスワースティカー・ムケルジー(いずれもヒンディー語読み)で、2人はベンガル語映画の人気探偵シリーズ『Byomkesh Bakshi(ボムケシュ・ボクシ)』のレギュラー出演者でもあるなど、トリウッド(ベンガル語映画界は、製作の中心地である南コルカタのトリガンジにちなんでTollywoodと呼ばれる。ただし近年は、同じくTollywoodと呼ばれる南インドのテルグ語映画界の方が隆盛なので、ベンガル語映画界をこの名で呼ぶ人は少なくなった)の空気が濃厚だ。父親役のサースワト・チャテルジーは、『女神は二度微笑む』(2012)で眼鏡の殺人鬼ボブを演じた名優でもある。
『ディル・ベチャーラ』はすべてに優しい作品で、A.R.ラフマーンの曲もいつもとは違ってとてもソフトだ。A.R.ラフマーンの作曲に、ダンスの振り付けはファラー・カーンと、超一流のスタッフ起用からもわかるように本作は劇場公開を目指していたが、コロナ禍とスシャントの急死とにより、急遽ディズニー+ホットスターの配信で公開されることになった。2020年7月24日と決まった配信は、会員以外も視聴できるようにチャンネルがオープン化され、家族全員が一緒に鑑賞できる時間帯、午後7時半からの開始となった。また、海外のインド系住民の多い地域でも、同様の配信措置がとられた。
本作の監督ムケーシュ・チャーブラーは、7月22日に配信時刻が発表される時、SNSで呼びかけた。「本作のプレミア上映を、場所は異なっていても観客全員が一緒に見てほしい。どの人にとっても特別なものになるよう願っている」。これを見たボリウッド映画人たちも、SNSで『ディル・ベチャーラ』の同時視聴を呼びかけた。こうして、家族全員で劇場に見に行くような、一種のパブリック・ビューイングが実現し、数多くの観客が亡きスシャントを偲んだのである。
ムケーシュ・チャーブラーにとっては本作が第1回監督作なのだが、彼はこれまでキャスティング監督として、硬派から娯楽大作まで幅広い作品のキャスティングを担当してきた。また、俳優としてもキャリアのあるチャーブラー監督は、作品をかっちりとまとめ上げて、見る者の心をゆさぶってくれる。
スシャントは旅立ってしまったが、今後の成長が楽しみな女優と監督を残してくれた。スシャントを偲び、何度でも見返したい『ディル・ベチャーラ』である。