1.コロナ禍とボリウッド
インドの映画興行が、なかなか正常に戻らない。
本年6月をピークに、変異株が猛威を振るったインドの新型コロナウィルス感染第2波は、拡大した時と同じように急速に下火になった。8月以降は毎日の新規感染者数は3万~4万人程度と、ピーク時の10分の1以下だ。そこで閉まっていた映画館も7月末から再開し始めたのだが、ムンバイを擁するマハーラーシュトラ州の映画館がいまだ閉館中なので、興収が回復しない状態が続いている。
そのため8月末には、『パドマーワト 女神の誕生』(2018)等の人気監督サンジャイ・リーラー・バンサーリーが、「マハーラーシュトラ州の映画館を再開させよう」と異例のコメントを出した。インド・シネコン協会も再開への要望を出しているのだが、9月20日現在、州政府はまだ慎重な姿勢を崩さない。そのため、インド全体の映画興行に弾みがつかないのである。
公開待機中の大作は数多くあり、8月19日に先陣を切って公開されたアクシャイ・クマール主演作『Bell Bottom(ベルボトム=1980年代)』は、ロングランしているもののヒット作の目安となる「興収100カロール(10億ルピー=15億円)」にははるかに届かず、その半分ぐらいの数字で終わりそうだ。1984年に起きたハイジャック事件を描いた本作は、ボリウッドの地元マハーラーシュトラ州の映画館が再開してさえいれば、ヒット作となったことだろう。
マハーラーシュトラ州政府は最近になってようやく、「11月5日から再開、施設使用のガイドラインも近日中に伝える」と発表したが、11月5日では秋のお祭りシーズンの主要な休日はすでに終わっており、稼ぎ時をはずすことになる。感染防止の観点からは有益だとしても、映画産業の回復はさらに遅れそうである。
そんな状況のインドだが、今後コロナ禍で疲弊したボリウッドを支える柱的スターとしては、アクシャイ・クマール、ランヴィール・シン、そしてアーユシュマーン・クラーナーの3人を挙げたい。アクシャイ・クマールは現在JAIHOで配信中の『弁護士ジョリー』(2017)【10月8日まで配信中】や、日本でもヒットした『パッドマン 5億人の女性を救った男』(2018)、さらには『KESARI/ケサリ 21人の勇者たち』(2019)などで、その魅力と実力を皆さんもご存じだろう。現在、「3人のカーン」をしのぐ稼ぎ高の男、と言われている大スターである。
ランヴィール・シンは、先日配信された『シンバ』(2018)で、これまで日本公開された『パドマーワト 女神の誕生』(2018)や『ガリーボーイ』(2019)【10月18日~11月16日配信】とはまったく違うキャラを見せて、皆さんの度肝を抜いたはずだ。ランヴィール・シンもまた、ボリウッドでは大作を背負って立てる男と見なされているのだが、今回は、数々の賞を受賞した『ガリーボーイ』が配信される。
最後のアーユシュマーン・クラーナーは、知っている人がまだ少ないに違いない。彼の主演作『ドリーム・ガール』が今回配信で日本に初お目見えするので、彼の不思議な魅力に皆さんも触れることができるはずだ。というわけで、新たに配信される2作品とその主演男優をご紹介しよう。
『ガリーボーイ』はたくさんの話題を提供してくれた作品だ。まず、ラップ音楽をテーマにした映画は初めてで、実在の若きラッパー、Naezy(ネィズィー)とDivine(ディヴァイン)の半生を元にしただけあって、本格的なラップ音楽が聞けるのが素晴らしい。ラップは10年ぐらい前から映画音楽にもいろいろ取り入れられてきたが、これこそがホンモノ! と思わせられた作品である。
さらに、主演のランヴィール・シンが、主人公ムラドの歌うシーンをすべて自分の声でこなしたことも話題になった。ムンバイ最大のスラム、ダラヴィに暮らすムスリム(イスラーム教徒)の大学生、というこれまでにない役柄に挑戦しながら、鬱屈した気持ちを昇華させた、質の高いラップを彼は歌っている。もちろん作詞は彼ではないが、表現力やパフォーマンス力も、本作でゾーヤー・アクタル監督に見出されたシッダーント・チャトゥルヴェーディーと共に、ラッパーそのものである。
これまで、軽めの娯楽作を手がけてきたゾーヤー・アクタル監督が、社会問題と正面から向き合ったことも注目された。実際のダラヴィ・スラムの一画にセットを作り、盗みや麻薬、DV、社会格差といった問題も織り込みながら、その中で矜持を持って生きようとする青年像を描いたことは高く評価され、本作は作品賞、監督賞、主演男優賞等々、山のような映画賞を受賞することになった。
個人的には、主人公ムラドの恋人サフィナ役の、アーリアー・バットのキャラも好きだ。ムスリムなのでヘジャブ(頭を覆うスカーフ)を常に被っているが、すごく気が強い女子大学生、それも医学部生という、頭の切れる女の子である。ご覧になれば、おやまあ、とあきれるシーンも多いに違いない。
その他、ムラドの父にヴィジャイ・ラーズ、母にはアムルター・スバーシュ、親友役にヴィジャイ・ヴァルマー、ムラドのメンター的存在の女性にカルキ・ケクランと、脇役も素晴らしい顔ぶれだ。これらの名優たちの見事なアンサンブルも、主役ランヴィール・シンの存在がしっかりしているから生きてくる。これまでのような、主役のカップルだけが派手派手しい物語を繰り広げるボリウッド映画は、終わりを告げようとしている。
アーユシュマーン・クラーナーは、親の七光りを持たない俳優だ。まず歌手として出発し、2004年にテレビの視聴者参加番組で認められて、番組の司会等で10年ほどテレビ畑を歩む。やっと2012年に『ドナーはビッキー』で映画デビューするのだが、これが何と、産院と契約して不妊治療のための精子を提供する青年という、かなり特異な役だった。
以後、日本で映画祭上映されたものを挙げると、『茶番野郎』(2014)、『ヨイショ! 君と走る日』(2015)、『僕の可愛いビンドゥ』(2017)、『バレーリーのバルフィ』(2017)、『結婚は慎重に!』(2020)と数多いのだが、公開作は『盲目のメロディ インド式殺人狂騒曲』(2018)1本のみ。『盲目のメロディ~』は彼の作品で初めて興収トップ10に、しかも第3位でランクインした記念すべき作品だが、盲目のピアニストで殺人の現場を“目撃”してしまう役、という、なかなかに大変な役だった。
こんな風に、アーユシュマーン・クラーナーは特異な役や難役を数多く演じてきた。『ヨイショ! 君と走る日』では肥満体の女性と結婚させられ、嫌っていた妻の心根を知ってやっと愛に目覚める男、『結婚は慎重に!』ではパートナーが親に結婚させられるというので、式に乗り込んで邪魔するゲイ、『Bala(バーラー)』(2019)では薄毛に悩むセールスマン、そして今回配信される『ドリーム・ガール』(2019)では、素人芝居の女形で声だけなら丸っきり女性に聞こえるため、テレクラに採用される青年と、これだけユニークな役を演じ続けている俳優も珍しい。
『ドリーム・ガール』は興収トップ10にこそ入らなかったが、20億ルピー(約30億円)を稼いだ人気作となった。携帯電話を使った顔の見えない恋愛、という現代的な筋立てや、関わる人々もクセがありながらみな善人、という設定が支持されたのだろう。それにも増して、アーユシュマーン・クラーナーの達者な女性ぶりに、観客は魅了されたに違いない。
こんな風に、アーユシュマーン・クラーナーはこれまでのボリウッド映画にないキャラクターを創出し、しかもそれに主役としての輝きを与えられる希有な俳優だ。彼はまた、『Article 15(憲法第15条)』では、赴任した村で因習にからまる差別と直面する警察署長というシリアスな役柄を演じ、その演技力が特異な役でなくても発揮されることを証明した。現在のボリウッドでは得がたい俳優であり、彼が起爆剤となってボリウッド映画が変わるのでは、という期待を抱かせるに十分だ。その片鱗を、ぜひ『ドリーム・ガール』で確かめてほしい。