テルグ語映画『ランガスタラム』(2019)は、いろんな意味でユニークな作品だ。ラーム・チャラン、サマンタという大スターの共演作だが、そのスター性に頼らぬ「特異な作品」と言ってもいいかも知れない。私自身、「のどかな農村ランガスタラム村を舞台に、若い男女が恋をする話」だと思って見たら、まったく違った内容で仰天したのだが、大きなねじれがあるのも特徴的だ。悪を退治する物語は周到に2つ用意され、片方がメインだと思っていたら最後の最後にもう片方が姿を現すという、実に凝った脚本になっている。本作は、ラーム・チャランが「役者人生の転換点となった」と語る作品だが、農村に暮らす男になり切り、土埃の中で喜怒哀楽を見事に表現した姿は、二枚目二世スターから演技派俳優への脱皮を印象づけてくれる。
ここではいくつかのモチーフを見ていきながら、本作が真に描こうとしたものは何かを考えてみたい。以下、ネタバレをたくさん含むので、本作をまだご覧になっていない方はまず『ランガスタラム』本編をご覧いただいてから、拙コラムに目を通して下さることをお願いする。
1.搾取と抵抗の物語
物語の舞台は、1980年代の南インド、アーンドラ・プラデーシュ州。現在は海岸部のアーンドラ・プラデーシュ州と内陸部のテランガーナ州とに分割されているが、この物語が設定された1980年代は一つの州だった。物語の軸という趣のゴーダーヴァリー川は、西隣マハーラーシュトラ州の聖地ナーシク近くが源流で、東へと流れて行って州都ハイダラーバードの北方を横切り、最後はベンガル湾に注ぐ。ゴーダーヴァリー川は地下でガンジス川の源流と繋がっているとも言われ、聖なる川として崇められている。その流域にある農村、ランガスタラム村で物語は進行するが、ランガスタラムは「舞台」という意味で、もちろん架空の地名だ。
この村は、「プレジデント」と呼ばれる村長が治めているが、何年かに一度の村長選挙は形だけのもの。父から村長を引きついだパニーンドラ・ブーパティ(ジャガパティ・バーブ)には一度も対立候補が立ったことがなく、常に不戦勝の彼は、「プレジデント」どころか「独裁者」のように30年間村に君臨している。政府からの補助金等はプレジデントとその配下が「ソサエティ」と呼ぶ組織を作ってすべて掌握、農民に高利で貸し付けては小細工を弄して農民たちの土地を奪い、小作農に落とし込む。その巧妙で横暴なやり方に、抗議した者は知らないうちに死体となって川に浮き、絶望した者は自ら死を選ぶことになる。 主人公チッティ・バーブ(ラーム・チャラン)の兄で、ドバイでの出稼ぎから戻ったクマール・バーブ(アーディ・ピニシェッティ)はこれを知り、村長選立候補を決意する。クマールは、この30年、村に足を踏み入れて政治活動することが許されなかった州議会議員ダクシナ・ムールティ(プラカーシュ・ラージ)の後押しを得て、村人たちを味方にしていくのだが、それまで何らかの抵抗を示した男たちと同様に、クマールも命を奪われてしまう、というのが大まかなストーリーだ。あまりにも露骨な搾取と、それに対する抵抗の芽生えの物語が『ランガスタラム』なのである。
2.難聴のヒーロー
物語の中で、ヒーローとなるのはもちろん、ラーム・チャラン演じるチッティである。しかし、彼は難聴という設定になっている。長年インド映画を見てきたが、耳がまったく聞こえない主人公は、日本映画『名もなく貧しく美しく』(1961)を翻案した(もちろん無断で)ヒンディー語映画『Koshish(努力)』(1972)などで登場したが、難聴のヒーローは初めてである。「難聴」の表現にはスクマール監督も苦心したようで、音声をいろいろといじっているが、難聴の人間(実は私も、メニエル病による聴力低下で、ある条件下では難聴になる)からすると、成功しているとは言いがたい。だが監督は、チッティに「俺には“聞く音”と“見る音”がある」と言わせて、読唇術も少しできることを示す。そしてこの読唇術が、兄を殺した犯人を特定する時に威力を発揮するのである。
兄が立候補した後、チッティは常に兄の身辺警護に目を光らせていたのだが、踊り子が村にやってきたことで男たちの騒ぎの輪に入り、仕事の助手マヘーシュが「よそ者が村に入り込んでるぞ」とご注進するまで夢中になって踊ってしまう。マヘーシュの言葉を聞いて兄が心配になり、きっと恋人の住む女子寮へ会いに行ったに違いない、と迎えに行き、広大な葦原で襲われている兄を見つける。そして瀕死の兄を助けて、村に近い茶屋まで戻ってくるのだが、兄の傷につけるターメリック(うこん)をもらっている隙に、兄は誰かに喉をかき切られてしまうのだ。苦しい息の下で、兄は犯人の名前をチッティに告げようとするが、その声はチッティの耳には届かない。だが、兄の唇の動きは目に焼き付き、後日、その名と同じ唇の動きが登場した時、チッティは犯人を突き止める。そして、この殺人を誰が命じたのかも知るのである。
この一連の謎解き部分は、本作の中でサスペンスの山場となっており、ラストで明かされる意外な犯人像は見る人に衝撃を与える。それまでずっと、チッティが献身的に仕えていた、思いもよらない人物だったからだ。と同時に、兄が殺された時いち早く逃亡したプレジデントを、呪術師の占いに頼りながら、ついには見つけ出して息の根を止めた時の話も語られる。プレジデントが隠れていたのは、兄が襲われた葦原だった。
3.蛇と聖紐
この葦原では、チッティの兄以外にも何人かが命を落とし、異界の人物のような男も現れたりする。まるで幽冥界の境にあるような場所なのだが、映画の幕開けにチッティが蛇を追って登場するのもこの葦原で、その時チッティは腕時計を見つけ、「蛇を探していると必ず何かを見つける」とつぶやく。そして後日、村人に頼まれて蛇を探していた時には、チッティは恋の相手ラーマラクシュミ(サマンタ)を見つけるのである。
その後蛇は登場せず、代わりに「人間の頭を持つ蛇」、つまりプレジデントのパニーンドラが登場する。パニーンドラという名前は、「Phani(パニー)」+「Indra(インドラ)」で、「パニー」は蛇、特にコブラのことを言う。「パニーンドラ」もコブラを言うことがあるが、大体はナーガ神、あるいは蛇族の王シェーシャのことを指す。シェーシャはヴィシュヌ神が横たわっている7つの頭の蛇のことで、本作中ではプレジデント配下の実行部隊長的存在、坊主頭のシェーシュ・ナーユドゥがその名を持っている。彼もまた、「人間の頭を持つ蛇」という意味のネーミングなのだろう。
本作では、プレジデントはパニーンドラという名前を嫌がっているようにも見えるが、プレジデントは自宅をまるで神殿のように扱い、門から入る人はもちろん、門の前を通る時も全員に履物を脱がせる。そして、訪れた者には必ずお茶やバターミルクを出す。これは、プラサード(神のお下がりの食べ物)気取りなのだろうか。ただし、そこで自分と訪問者のカースト格差をわからせるように、「飲んだコップは自分で洗っていけ」と命じるのである。金属製の食器は穢れが付かないと考えられていることから、洗えば再利用可能なのだが、それにしても奇妙なカースト差別行為である。これをチッティが打ち砕くシーンがあるが、そのシーンのための前振りなのかも知れない。
プレジデントは最初に登場するシーンで、上半身裸であることから、左の肩に掛けている聖紐(ジャネーウー、ウパナヤナムなどと呼ぶ)が見えて、バラモン階級であることが推察できる。村人では他に誰も聖紐をしている姿は出てこず、僧侶のシーンでも聖紐が見えない演出がなされている。プレジデント以外に聖紐が登場するのは、最後に議員のダクシナ・ムールティが倒れるシーンで、肌の上の白い聖紐は白い蛇のようにも見え、本作が蛇退治の映画であったことに気づかされる。
様々な映画賞を受賞したのも当然の、スクマール監督の脚本&演出とラーム・チャランの演技。何度見ても新たな発見がある、秀作のテルグ語映画である。