日本で香港映画といえば、ブルース・リーやジャッキー・チェンのアクションやジョン・ウーやジョニー・トーのノワールを思い浮かべる人が多いだろう。だが、香港映画界はブルース・リーが世界に颯爽と登場する以前から、東洋のハリウッドと呼ばれ、東南アジア市場全体に興行網を持ち、バラエティに富んだ作品を供給する巨大な映画工場として君臨していた。その東洋のハリウッドにおいて、60年代中盤に全作カラー&シネマスコープでの製作方針を打ち出し、圧倒的な勢力を誇って栄華を極めたのが香港最大の映画会社ショウ・ブラザースだった。
そして、ショウ・ブラザースの成功を技術的側面から支え、”香港カラー撮影の父”とも呼ばれた一人の日本人がいた。その名は西本正。日本の映画ファンには、中川信夫監督の『東海道四谷怪談』(1959)や、ブルース・リーの初監督作品『ドラゴンへの道』(1972)【近日配信予定】の撮影で知られる西本は、60年代前半に香港へ渡り、ホー・ランサン(賀蘭山)のクレジット名で数多くの作品を撮ると同時に、香港映画界にカラー撮影とシネマスコープ撮影の技術を伝えた人物だった。
リー・ハンシャン、キン・フーなど、香港が誇る巨匠たちをはじめ、マイケル・ホイからブルース・リー、日本から招かれた井上梅次や中平康らの作品まで、西本が撮った作品の数々は、まさにそのまま香港映画史といっても過言ではない重要な作品ばかりである。彼は単なる”香港カラー撮影の父”どころか、間違いなく”香港映画の父”の一人だったのだ。
2000年代に入り、セレスティアル・ピクチャーズがショウ・ブラザースのライブラリーのレストアと国際セールスを開始して以来、日本でもクンフー映画のジャンルに関しては数多くの作品がディスク化されてきたが、リー・ハンシャン監督の名作や日本人監督作品の多くは、映画祭での企画上映など、ごく一部の機会を除いて日本ではほとんど紹介されたことがない。「東洋のハリウッド:香港映画の全貌~香港映画の父・西本正が撮った傑作たち」は、そうした日本初公開作品を含め、西本正の歴史に残る仕事ぶりを通し、香港映画が輝きを放っていた時代を振り返る特集である。
中国への返還から24年、今や政治的にも文化的にも中国に飲み込まれつつあり、香港映画そのものが存亡の危機にあるなか、黄金時代の熱気と自由なエネルギーに満ち、高い芸術性も兼ね備えていたそれらの作品の素晴らしさ、そしてそれを支えた西本が撮った映像の美しさに、驚く方も多いだろう。まさにこれは、すべての映画ファンが見て、語り継ぐべき国際的文化遺産といえる。
『楊貴妃』(1962)【6月21日~7月27日配信】は、製作当時、香港映画界ナンバーワンの巨匠として絶対的信頼を得ていたリー・ハンシャン監督による中国四大美女を描く4本のシリーズ企画の第1弾で、完成までに2年の歳月を費やした超大作である。
西本は1957年にショウ・ブラザースに招かれ、6ヶ月間香港に滞在して2本の作品を撮り、一度は日本に戻って新東宝で中川信夫監督作などの10本以上の作品を手掛けた後、1960年に再び香港に渡る。以来、彼は香港に完全に根を下ろし、香港映画界で新たな、そして輝かしいキャリアを築いていくことになる。『楊貴妃』は西本の本格的な香港時代の第1回撮影担当作品である。
ショウ・ブラザースは55年に溝口健二監督の『楊貴妃』を大映と共同制作している。だが、同作は実質的には日本で撮られた日本映画で、ショウ・ブラザースは出資をしただけだった。このリー・ハンシャン版は、白居易の「長恨歌」をベースにした物語自体は溝口版とほぼ同じで、リメイクとしている文献やデータベースも少なくない。しかし、ハンシャンは溝口版にある楊貴妃が宮廷にあがるまでのくだりを大胆に省き、楊貴妃と楊一族が没落していく晩年を、「安史の乱」の戦闘シーンなども交えスペクタクルかつダイナミックに描いた。展開はダイジェスト的で人間ドラマとしてはあっさりしているものの、巨大なセットに細部まで凝った豪華な衣装美術、何より奥行きのある見事な構図と鮮やかな色彩による西本の映像は素晴らしく、小さいセットでの窮屈な構図や淡い色調でメリハリに欠ける溝口版を映像、美術面で完全に凌駕している。
『楊貴妃』は公開時、香港の興行新記録を樹立しただけでなく、カンヌ国際映画祭で「すぐれた色彩撮影により」高等映画技術委員会特別賞を受賞し、香港映画の勢いを世界に知らしめることにもなった。この1本で、香港映画界における西本への信頼が確固たるものになったのはいうまでもない。
一方、『大酔侠』(1966)【6月21日~8月12日配信】は、“香港のクロサワ”の異名を取るキン・フーの監督第2作で、初の武侠(時代劇チャンバラ・アクション)映画。ちなみに、同じく西本と組んだ初監督作の『大地兒女』(1965)は、西本も日本軍の悪役ぶりに閉口する抗日戦争大作だった。
明の時代、市中を荒らす盗賊団の首領が総督によって逮捕されたが、盗賊団は、総督の息子、張歩青を襲撃し、首領との交換のための人質に取る。だが、総督は交渉を拒否、歩青奪還のため、歩青の妹で、“金燕子”の名で世に知られる武芸の達人、張煕燕(チェン・ペイペイ)を派遣する。金燕子は、伝説の武芸者“酔侠”(ユエ・ホア)の協力を得て、兄の奪還と盗賊団の討伐を果たしていく。
こだわり抜いた京劇的なテンポや音楽使い、舞踊のような剣戟アクション、そして絵画的な美術やセット…、1971年の『侠女』で一つの頂点を極め、世界を驚嘆させることになるキン・フー美学のエッセンスや原型の多くはすでにこの作品に見ることができる。当時香港で大ヒットしていた勝新太郎主演の『座頭市』シリーズへの目配せが随所に散見されるが、『座頭市』への意識に関して西本は認め、監督自身は否定している。
男装の女剣士“金燕子”をクールに演じた新人女優チェン・ペイペイは、この作品でブレイクして“武侠影后”と呼ばれ、ショウ・ブラザースのトップ女優の一人となっただけでなく、アン・リー監督が『グリーン・デスティニー』(2000)で起用するなど、アクション映画史のレジェンドとして崇められる存在となった。彼女が同じく“金燕子”を演じるスピンオフ的な作品にチャン・チェ監督、ジミー・ウォング共演の『大女侠(原題:金燕子)』(1968)がある。
武術指導は盗賊団の一人を演じているハン・インチェ。『ドラゴン危機一発』【近日配信予定】のボス役兼武術指導として知られる彼は、キン・フー監督の主要作品のほとんどの武術指導を手掛けている。監督の著作によると、サモ・ハンが武術指導助手として参加し、子役の一人としてジャッキー・チェンも出演しているという。また、毒矢を受ける寺の小坊主を演じているのは後に監督となるチン・シウトンである。
『大酔侠』はキン・フー監督の出世作となり、ショウ・ブラザースから離れ、台湾で撮ったさらなる大ヒット作『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』(1967)へと続き、香港・台湾における武侠&クンフー映画ブームを発生させる。キン・フー作品自体は格闘技そのものを見せる映画ではないが、多くの武侠&クンフー映画が彼の作品の設定や作劇をなぞって量産され、それは何より、結果的にブルース・リー誕生のための土壌を耕すことにもなった。
キン・フーを尊敬していたブルース・リーは、『ドラゴンへの道』でとにかく西本の起用にこだわったという。西本正は世界を制覇した才能たちが絶大な信頼を寄せた、世界最高のカメラマンの一人だったのである。
参考文献:
「香港への道 中川信夫からブルース・リーへ」(西本正/山田宏一・山根貞男、筑摩書房)
「キン・フー武侠電影作法」(キン・フー/山田宏一・宇田川幸洋、草思社)