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2022.03.11

変貌を続ける台湾の巨匠  ホウ・シャオシェン〈前編〉

ノスタルジックなイメージを振り払った『ナイルの娘』

市山尚三

『ナイルの娘』©1987 Scholar Multimedia Co., Ltd /©2016 Taiwan Film and Audiovisual Institute All rights reserved.

 ホウ・シャオシェンの日本での最初の劇場公開作は、1988年に今はもうなくなってしまったシネ・ヴィヴァン六本木で公開された『童年往時/時の流れ』(1985)だ。その翌年の1989年、日比谷のシャンテ シネ(現TOHOシネマズシャンテ)で連続して公開された2本の作品、『冬冬の夏休み』(1984)、『恋恋風塵』(1986)が日本でのホウ・シャオシェンの評価を決定づけた。いずれも台湾の田舎で撮られたこの2作品により、日本の映画ファンは、現代社会が忘れてしまったノスタルジックな世界を撮る映画監督、というイメージをホウ・シャオシェンに見出した。来日したホウ・シャオシェンの人懐っこい風貌もそのようなイメージの形成に貢献したのではないかと思う。

 その1989年、ホウ・シャオシェンは1947年の台湾で勃発し、当時は真正面から描くことがはばかられていた政治動乱「二・二八事件」を扱った『悲情城市』(1989)によって中国語圏の監督としては史上初のヴェネチア映画祭金獅子賞を受賞。世界での名声を確立した。日本では『悲情城市』は1990年の春にシャンテ シネで公開され、期待通りの大ヒットとなった。その同じ年の夏に公開されたのが、製作時期としては『恋恋風塵』と『悲情城市』の間に位置するナイルの娘』(1987)【配信期間:2022年3月15日~4月13日】である。

『ナイルの娘』©1987 Scholar Multimedia Co., Ltd /©2016 Taiwan Film and Audiovisual Institute All rights reserved.

 ホウ・シャオシェンが初めて台北を舞台に設定したこの作品は、当時の日本の映画ファンを困惑させた。映画は、孤独に台北で暮らす女子学生の日常を描きだす。母親を失くし、父親は別の都市で働いている女子学生にとって唯一の心のよりどころである兄は、ヤクザな商売に手を染め、いつ命を失うかわからない危ない橋を渡っている。題名の「ナイルの娘」は女子学生が愛読している古代エジプトを舞台とするコミック(実は、日本の人気コミック「王家の紋章」の海賊版である)の名前で、女子学生はその世界に思いをはせることで恵まれているとはいえない現実から逃避しているのである。

『ナイルの娘』©1987 Scholar Multimedia Co., Ltd /©2016 Taiwan Film and Audiovisual Institute All rights reserved.

 当時、ホウ・シャオシェンのファンを自認する人々からでさえ、この作品は失敗作である、という声が聞こえていた。要するに、田舎のほのぼのとした世界を描くことにおいて優れていたホウ・シャオシェンが、慣れない都会を舞台にしたものの、これまでの田舎のようにうまく描くことはできなかった、ということである。だが、当時この作品を見てある種の衝撃を受けた私は、しばらくは『ナイルの娘』こそがホウ・シャオシェンの最高の作品だ、と主張していた。今から考えると、そう主張していたのは、ホウ・シャオシェンを“ノスタルジックな世界を描く監督”というイメージに落とし込んではいけない、と考えていたからではなかったかと思う。もちろん、私は『冬冬の夏休み』や『恋恋風塵』が嫌いなわけではない。そして、これらの作品が日本人にとってノスタルジックな雰囲気を感じさせるのも当然だと思う、だが、これらの作品に見られるホウ・シャオシェンの視線は、どこか突き放して客観的に登場人物たちをとらえているように思えた。これらの作品を覆っていた田舎の昔懐かしい風景がなくなり、都市の風景に変わった『ナイルの娘』ではその客観性がより際立っており、それが当時の私に衝撃を与えたのであろう。

『ナイルの娘』©1987 Scholar Multimedia Co., Ltd /©2016 Taiwan Film and Audiovisual Institute All rights reserved.

 私がホウ・シャオシェンに会ったきっかけは、『戯夢人生』(1993)を私が作品選定を行っていた東京国際映画祭「アジア秀作週間」のオープニング作品に選んだことである。その翌年、私が所属していた松竹が『好男好女』(1995)に出資することになり、私は期せずして3本のホウ・シャオシェン作品(『好男好女』、『憂鬱な楽園』、『フラワーズ・オブ・シャンハイ』)のプロデューサーを務めることになった。『好男好女』は1950年代の台湾に吹き荒れた「白色テロ」を扱った作品だが、ホウ・シャオシェンはストレートにその時代を描くのではなく、「白色テロ」で夫を失った女性を演劇で演じる現代の女優の視点から描くという方法をとった。つまり、映画の中では今の台北に生きるヒロインの日常と、ヒロインが想像する「白色テロ」の時代がカットバックされながら描かれるのである。その現代の場面は様々な点で『ナイルの娘』と符合する。今から振り返ると、『好男好女』はホウ・シャオシェンがそれまでに確立したイメージを振り払うかのようにスタイルを変貌させてゆく端緒となった作品である。そういう意味では、『ナイルの娘』は『好男好女』後のホウ・シャオシェンを予見する作品とも言えるだろう。

※後編(3月15日アップ予定)に続く。

『ナイルの娘』©1987 Scholar Multimedia Co., Ltd /©2016 Taiwan Film and Audiovisual Institute All rights reserved.

【『ナイルの娘』作品ページ】