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2021.10.05

コンテンツ大国勝利の原点 栄光の韓国映画史②

70年代 韓国映画の暗黒期~長く暗いトンネルの中で光を放つ秀作たち~

桑畑優香

『殺人蝶を追う女』

●暗黒期

 「韓国映画の暗黒時代」「沈滞期、あるいは衰退期」。1970年代の韓国映画業界を表現する言葉には、どんより重い単語が並ぶ。数字をみれば一目瞭然。1969年には一人当たり年間5.7回だった映画鑑賞本数は、1970年代末には1.5回に減少。映画館の数も、減る一方だった。

 メロドラマの形を借りたリアリズム作品や文芸映画を中心に良質の映画を多く生み出し、「ルネッサンス期」といわれた1960年代から、一転。1970年代に映画界が不況に襲われた理由のひとつは、「漢江の奇跡」といわれる経済発展だ。朴正煕政権のもと、朝鮮戦争の廃墟から復興を遂げつつあった韓国は、高度成長に伴い人々の生活も変化した。レジャー産業が発展し、娯楽が多様化。なかでも映画に大きな影響を与えたのは、テレビだった。1971年にはわずか10パーセントだったテレビ受信機の普及率は、1979年には、79.1パーセントに。ありきたりな魅力では映画館に観客を集めることが難しくなった映画業界は、低質新派調のメロドラマや低質コメディーを量産するようになり、結果的に映画離れを引き起こしてしまった。

『ヨンジャの全盛時代』

 だが、急速に変わりゆく社会は、それを題材にした秀作も生み出した。1970年代を代表する作品のひとつが、ヨンジャの全盛時代(1975、キム・ホソン監督)【10月4日~11月2日配信】。地方から上京して工場の社長宅で家政婦として暮らしているヨンジャと、鉄工所の労働者チャンスのラブストーリーだ。

『ヨンジャの全盛時代』

 1970年代には、経済発展を追い風に、都会での成功を夢見て地方から上京した若者たちがたくさんいた。ヨンジャには、そんな若年労働者の姿が投影されている。ところが、ヨンジャは主の息子に暴行されて家政婦から小さな工場の工員に、その後バスの車掌となり、さらに売春婦へと転落していく。一方、ベトナム戦争に参戦したチャンスは、帰還後、銭湯で他人の体を洗う垢すり師に。ギター・ジーンズ・ビールが若者の三種の神器とされた時代に置いてきぼりとなった2人が育む純愛、特に事故で片腕を失ったヨンジャの体をチャンスが浴場で洗い流すシーンは、韓国映画史に残る名場面のひとつだ。

『ヨンジャの全盛時代』

 メガホンを取ったキム・ホソン監督は、当時流行していた「青年映画」の旗手のひとりと称される。「青年映画」とは、主に大衆小説を原作に30代の若い監督が製作した作品のこと。『ヨンジャの全盛時代』も、人気の新聞小説を映画化したものだ。キム・ホソン監督は1975年、青年映画を盛り上げるためのグループ「映像時代」を結成。「韓国映画の芸術化」を掲げた「ニューシネマ運動」を宣言し、新人俳優の募集や、監督を志す人の養成、映画専門雑誌『映像時代』の発刊などに尽力し、映画界に新しい風を吹き込んだ。

『花粉』

 キム・ホソン監督とともに「映像時代」を立ち上げたメンバーのひとりが、ハ・ギルチョン監督だ。合コンやスト、軍入隊など当時の大学生カルチャーを描いた『馬鹿たちの行進』(1975)で知られるハ・ギルチョン監督は、韓国で初めてUCLAの大学院に留学し、大学内でフランシス・コッポラ監督と親交があったという、異色の経歴の持ち主。7年間のアメリカ滞在中には、製作した短編映画『兵士の祭典』(1969)が、MGMがUCLAの卒業作から選ぶメイアーグランド賞を受賞した実力派だ。留学中から注目を浴びていたハ・ギルチョン監督が韓国に帰国し、長編デビューを飾ったのが、花粉(1972)【10月17日~11月15日配信】だった。

 『花粉』の舞台となるのは、「青い家」と呼ばれる邸宅だ。主な登場人物は、邸宅の主人ヒョンマ、彼の妾のエランの妹ミラン、そしてヒョンマの部下、ダンジュ。ミランとダンジュが恋に落ち、二人の関係に憤怒したヒョンマを避けるために逃避行を試みるが、見つかって青い家に閉じ込められ……という物語。ここで斬新なのは、ヒョンマが若い二人の関係を阻もうとする理由が、同じ男性であるダンジュに対する嫉妬であるということ。つまり、1970年代の映画ではレアなテーマである同性愛を描いているのだ。また、華やかなパーティーが行われると同時に、ダンジュを抑圧・蹂躙する場となる「青い家」は、韓国の最高権力者の住まいである青瓦台、すなわち大統領府をあからさまに示している。これらにはハ・ギルチョン監督の、表現の自由が許容されるアメリカで映画を学んだ感性と、帰国して身を置いた韓国の不自由さに暗にあらがう精神がにじみ出ている。

『花粉』

 そう、1970年代の韓国映画に不況をもたらしたもうひとつ、かつ最大の理由はほかならぬ独裁政権だった。朴正煕政権は1972年の憲法改正以降、映画に対する検閲も強化。特に、イデオロギーに関する描写についてのチェックが厳しくなると同時に、国内の映画祭の「反共部門」で受賞した映画会社は、外国作品の輸入にあたり優遇されるという制度も作られた。つまり、映画会社が人気の外国映画を輸入すべく、政府の意向に合う韓国映画を量産することが、検閲にまみれたツマラナイ作品を生んで映画離れの原因になるという、悪循環が起きてしまったのだ。

『長雨』

 『誤発弾』(1961)で高い評価を受けたユ・ヒョンモク監督も、1970年代に苦汁をなめた一人だった。現在の北朝鮮・黄海道に生まれ、朝鮮戦争で父と兄弟を失い、南側に逃れたユ・ヒョンモク監督は、『誤発弾』では、自身と同じ失郷民の厳しい暮らしを描き、南北分断の悲劇を訴えた。しかし、1970年前後から監督の作品は反共色を強めていく。そんななか、映画評論家の間で再び好評を博したのが、長雨(1979)【11月28日~12月27日配信】だった。朝鮮戦争で戦死した息子を持つ母方の祖母と、左翼パルチザンの息子を持つ父方の祖母が同居する家族の中の分断、そして和解。本作に登場するパルチザンの青年は、型にはまった「共産主義という悪の権化」ではなく、南北分断の犠牲者として描かれる。それにもかかわらず本作が検閲を通過したのは、公開が朴正煕政権が幕を下ろした後だったためではないかと、韓国内では推測されている。

『殺人蝶を追う女』

 ……と、ここまでは韓国映画史の資料(主に韓国映像資料院)に「正史」として記される1970年代をベースにまとめたものだ。だが、実は今回JAIHOで配信されるなかで、個人的なイチオシは殺人蝶を追う女(1978年、キム・ギヨン監督)【10月4日~11月2日配信】と夕立ち(1979年、コ・ヨンナム監督)【11月9日~12月8日配信】だ。

 キム・ギヨン監督といえば、『パラサイト 半地下の家族』のポン・ジュノ監督に「多大な影響を受けた」と言わしめ、『ミナリ』でアカデミー賞助演女優賞に輝いたユン・ヨジョンに授賞式で「この賞をわたしにとっての初めての監督、キム・ギヨン監督にも捧げたい」と言わしめたことでも有名。『殺人蝶を追う女』は、そのキム・ギヨン監督が、「会社の要請で撮った映画だから、どのように撮ったかもわからず、思い出せない」と謙遜(?)する隠れた名作だ。自殺願望のある主人公と、彼を阻止する怪しい老人、二千年前からよみがえった新羅時代の女性etc.登場人物からして名作ならぬ迷作ともいえる荒唐無稽ぶりだが、ある意味、「抑圧」「沈滞」という言葉に象徴される1970年代に、こんなにも自由でアバンギャルドで、それでいて作家性が際立つ作品が存在したのか、と気づかされる。

『夕立ち』

 一方、『夕立ち』は、韓国の中学校の教科書に載る有名な文学作品の映画化だ。まさに教科書的な清らかさのなかに、静かに漂うエロティシズム。シナリオを書いたイ・ジンモの故郷、忠清北道永同郡で撮影された地方の美しい風景は、誰もが心の奥に大切にしまっているであろう初恋の思い出を呼びおこす。

『夕立ち』

経済発展と独裁政権という長く暗いトンネルの中でも、いくつもの光を放っていた韓国映画。それらは1980年代、政治の転換とともに、また新たな段階を迎えることになる。

参考文献:

「韓国映画史」(キム・ミヒョン責任編集、根本理恵訳、キネマ旬報社)

「韓国映画祭1946-1996 知られざる映画大国」(朝日新聞社)

「韓国映画100年史――その誕生からグローバル展開まで」(鄭琮樺著、野崎充彦・加藤知恵訳、明石書店)

「韓国映画100選」(韓国映像資料院編、桑畑優香訳、クオン)

「韓国映像資料院」公式HP