「Asian Indies アジア映画の最前線」という特集名のもとJAIHOがプレミア配信してきた、チョン・ゴウン監督の『小公女』、ノリス・ウォン監督の『私のプリンス・エドワード』、ハン・ガラム監督の『アワ・ボディ』。これらの作品には、それが文字通りアジア映画の最前線を代表することに加え、もう一つ、図らずも共通して認められる特徴がある。いずれの映画とも、女性が中心となって物語を引っ張っていくことだ。
そして本特集の第4弾としていよいよ登場する『GF*BF』のヤン・ヤーチェ(楊雅喆)監督による台湾映画『血観音』【9月26日~10月25日配信】も、その特徴をさらに強固にした形で共有する。骨董品店を表向き営む女主人とその娘らが、台湾社会を政治の中枢まで巻き込んで、血生臭く揺り動かしていく物語だからだ。数の上では、男優によって演じられている役柄もそれなりにはある。けれど男たちは、社会的地位を表す肩書きが権力の中心や上層にいるように見える人物も含めて、所詮は彼女たちの詭計や欲望の好都合な対象として脇に控えるしかない。
本作を徹底して女の世界の物語として構築しようとする監督の意思は、明瞭だ。舞台の中心となる骨董品店では、女主人のダンナは、既にこの世を去ったことになっている。父や男兄弟もいない。重要な決断は、女たちが自らの意思と責任で下すのが、『血観音』の世界の道理だ。
またこの映画は、作者(監督)が直接女主人公一家の物語を語るのではなく、冒頭やラスト等で月琴を抱えて登場する語り手によって語られるという興味深い構造が取り入れられている。その語りの主も、女性に設定されている。演じているのは、台湾伝統の語り芸、唸歌の世界で国宝級の名手と評され、同地の文化勲章にたとえられる行政院文化奬を今年授与されたばかりの楊秀卿だ。細かく見るならば、語り手は男女の二人組として設定されている。そしてこのコンビの間でも、主体となって語るのは女。男は、従の立場に過ぎない。
ところで、女性を中心に据えた作品の多くは、洋の東西を問わず、伝統的に一つの宿命を負ってきた。仮に作品の評価は抜群に高くても、市場における成功はマージナルな領域に止まりがち、ということだ。本場ハリウッドはもちろん、長きにわたり東洋のハリウッドと称されてきた香港映画界や、現在の東洋のハリウッドと称し得る韓国映画界でも、メインストリーム映画として大衆的な成功を収めた作品の大部分は、男性中心の物語構造を持つ。
そのことは俳優の観客動員力評価にも自ずと反映している。香港映画界におけるブルース・リーからジャッキー・チェン、周星馳に至る男性俳優の観客動員力評価や、韓国映画界におけるソン・ガンホやイ・ビョンホンら男性俳優の観客動員力評価に匹敵する地位をうかがう女性スター俳優は、なかなか登場しない。アジアにおけるもう一つのハリウッドことボリウッドを擁するインドも、事情は同じだ。
そんななか『血観音』は、女性中心の作品構造を持ち、女性を話者に据えて徹底して女性世界を描くものでありながら、台湾映画として年間を代表する大ヒット作になった、という点でまず画期的な意義を持つ。その興行収入は、8800万台湾元(約3億5千万円)強。これは、2017年に現地で封切られた台湾映画として第2位の座につく快挙だ。
ちなみに同年の第1位は、1億元台のミラクルヒットを記録したホラー映画『紅衣小女孩2』だった。こちらもレイニー・ヤンら女優が中心の作品。台湾映画の2017年は、女性が中心の構造を持つ作品が劇場を席巻した年、と総括することもできるだろう。とはいえ台湾映画に限らず、ことホラーというジャンルに関して言うなら、女優が中心に据えられることは必ずしもマイノリティを意味するわけではないのもまた事実だが……。
実のところ、『紅衣小女孩2』が大成功を収めたのは、それほど驚くべきことではない。元々大ヒットをした前作があり、これはそのパート2として製作された典型的娯楽ジャンル映画の1本だからだ。一方『血観音』は、女性中心の構造を持つ上に、安定的な観客動員が見込めるジャンル映画ともおよそ作りを異にする。主演陣のなかで最もポピュラリティが高いのは、一家の主を演じていたカラ・ワイだが、彼女とて今日では観客動員力保証付きスターというわけでもない。それでも結果的には興収第2位という奇跡的ヒットを遂げたところに、いかに作品そのものが人々を魅了し、口コミで動員が広がっていったかが見て取れる。台湾のアカデミー賞と呼ばれる金馬奬(台湾映画だけでなく、中国語の作品であれば国籍を問わず受賞対象になる)でも、業界の専門家によって構成された審査員団が選出する最優秀作品賞、主演女優賞など計3部門で受賞を果たしたのに加え、観客投票ベスト作品賞にも輝いた。
初めてこの作品を目にした観客は、いったい何が起ころうとしているのか方向感さえ掴み難い開巻部の描写に、まず心をざわつかされるに違いない。主演級としてクレジットされていた3人の女優(カラ・ワイ、ウー・クーシー、ヴィッキー・チェン)の誰一人として登場しないまま、上述の楊秀卿がやってきて、物語を語り始めようとする。一方で同時に、テレビのニュース画面では、台湾屈指の売上高を誇るデベロッパー企業グループの会長の女(演じるのは『モンガに散る』のアリス・クー)が映し出されている。公の場に義足姿で現れた彼女に、救助を求める謎の電話がかかってきた、というニュースだ。そして義足や救助要請電話に関する背景の事情を謎として据えたまま、物語は彼女が昔(まだ義足にはなっていない時期)、母の情事を盗み見する場面(同じ役をヴィッキー・チェンが演じている)へと急転直下、移行していく。
その後も、ジャンル映画的なお決まりのドラマ展開パターンを離れて、自由奔放に、創造的に、3代にわたる女たちの権力や支配、欲望をめぐる驚異的で国家的規模にも及ぶ物語が紡ぎ出されていく。その物語ることの芸そのものが、観客をぐいぐいと吸引していく主動力にほかならない。作中で楊秀卿が物語を語っている時に見せる、俗世を忘れて喜びに打ち震えたような姿。それはそのまま、この映画の物語を紡ぐ監督自身の姿にも重なって見えてくる。