俗に李朝五百年と言う。韓国ではこの時代を前期・中期・後期に分けて見るのが一般的だ。しかし、壬辰倭乱・丁酉再乱(文禄・慶長の役)を境にした前後期、百年単位の区分、さらに細かく官学派執権期から開化期と「その後」まで十期に分ける見方などがあり、歴史学会では議論が絶えない。
英祖と正祖が在位したのは十八世紀で蕩平の時代と言われる。英祖は在位期間歴代最長52年を誇り享年八三歳と一番長生きした王だ。正祖は世宗大王と並び最も開明的な君主であったと評される。正祖はなるべくしてなった王であると共に、近代化の萌芽期を迎えつつあった時代、それを開花、発展に導く資質を有していた。故に、もっと長生きしたならば、後の朝鮮王朝、そして今の歴史は変わっていたであろうとつい夢想してしまう。
正祖は朝鮮王朝の中で比類なき文武両道の体現者であった。奎章閣を設置し、法典『大典通編』、武芸書『武藝圖譜通志』をはじめ数多の文物を編纂、整備し、自身の詩文集は『弘齋全書』としてまとめられている。王権強化のため親衛隊である壮勇営を創設、水原に軍事施設の性格を帯びた華城を洋の東西を問わず当時最高の技術を用いて築城した。科学技術の発展や文化芸術の振興に尽力し、厳格な身分制度の下、庶孼(※平民出の妾の子である庶子と賎民出の妾の子である孼子を合わせた言葉)から多くの人材を抜擢、要職に登用した。英祖の実母が賎民であったため、庶孼登用は必然であったとも言えるが、正祖ほど垣根を取り払い多くの人材を発掘した例は後にも先にもない。また、王自身が弓の名手であったことは正史に多数記されているし、朋党政治のるつぼの中で、実父を祖父の手で殺害された悲劇の主人公でもある。
英祖と正祖の物語でお決まりのように登場するのが「毒殺説」、英祖は兄景宗を毒殺し、正祖は何者かに毒殺されたという話だ。歴史的にも医学的にも毒殺は立証されていない。景宗は元来病弱で、衰弱していたところに食べ合わせが悪くて絶命したとされるが、その献立を勧めたのが英祖であった。正祖は即位後に宮中で命を狙われたし、最期は病状が悪化していく中、処方された薬に疑問の余地がいくつかあった。いずれも動機と情況証拠は認められるものの、毒殺を断定できる証拠はない。共通するのは、背景に臣下たちの激しい党派間対立、勢力争いがあり、王の死を切に望んでいた一派がいたということだ。
景宗を支持していた少論に対して老論は弟の英祖を担いだ。英祖の時世に老論は大勢となり、思悼世子は老論を遠ざけ南人と少論にシンパシーを感じていた。思悼世子を死に追いやった老論は後の報復を恐れて世孫(正祖)の即位に強く反対した。
16世紀、地方の儒学者たちは政治勢力化し士林を形成した。これが東人と西人に分裂した後、東人は北人と南人に分派し、西人は老論と少論に分派、正祖の時代に老論の一部が少論と南人と時派を形成し、老論優位を固守しようとする僻派と対立した。こうした臣下たちのいわば離合集散は、儒学に基づく大義名分と正統性に関する解釈・主張の違い、権力掌握のための処世術から生じたもので、その根本には政の実権は自分たちにあるという自負があった。朝鮮開国の一等功臣鄭道傳は太祖李成桂の絶大な信任の下、政権と兵権を一手に握り、宰相中心制を指向した。彼は三代王太宗に殺されたが、鄭の思想が後々の世まで引き継がれたのではないかと推察する。
換局政治により時局が変った18世紀初頭は、その前の時代よりも王権が比較的安定していたが、英祖と正祖は更なる強化を目指した。そのために、特定の党派に実権を握らせないよう、各党派から人材を選んでバランスよく配置したのが蕩平策である。
正祖の治世を振り返ると何故か太宗と世宗を彷彿する。武人的と評される太宗の気質と開明君主であった世宗の気質を併せ持っていたように思えてしまうからだ。ただ、革命第一世代とその子の時代から三百年が経過し、武力をもって王権をどうこうできる時代ではなかった。そうした中で、正祖は臣下たちとの綱引きに蕩平策を用いて理性的に対処し、軍事力の改編・強化にも取り組んだのであった。
正祖没後、近代化につながる施政は、英祖の継妃である貞純王后が大王大妃として実権を握り、ことごとく覆された。そして朝鮮王朝は特定の一族が政権を司る勢道政治の時代に移っていく。王に権力を集中しておいたことが逆に禍と化したのである。以降、正祖の政策を継承する王は現れず、朝鮮近代化の萌芽は煌びやかな文明開花に至ることはなかった。
正祖の傍に仕えた、朝鮮史上最高の学者と言われる丁若鏞や天才画家と称される金弘道らが同じ時代を生きたのは単なる偶然なのか。金弘道の絵からは、当時、世に出されたラテン方格の要素を見出せるし、写実主義と言われる朝鮮後期の画風もカメラ・オブスキュラを用いたことによると丁若鏞が記している。学術と知性、文化と芸術の複合的交差ないし共有が伝わってくる。
最後に思悼世子、朝鮮王家の中で最も悲惨かつ非業の死を遂げた人物だ。彼にまつわることの顛末については、正史以外に妻である恵慶宮が書き記した閑中録などを通じて後世に伝えられた。父王が齢四十を過ぎて誕生した後継ぎである。どれほど嬉しかったことか。しかし、一歳にして冊封され、過大な期待を一身に背負うことになった世子は、聡明で才能豊かであったにもかかわらず、成長と共に歪んでいき、晩年は狂人扱いされた。彼もまた朋党政治の犠牲者である。
父王は息子の死を嘆き思悼の諡号を授けた。そして1968年に発掘されて1991年に公開された思悼世子の墓誌には、米櫃に閉じ込めたことに対する英祖の弁明めいた言葉と、その中で死んだという知らせを聞き深く悲しみ、悔恨の念を抱いたことなどが赤裸々に記されている。まさに歴史に残る悲劇という以外に言葉が見当たらない。
『王の運命-歴史を変えた八日間-』【2022年7月4日~8月2日配信】
『王になった男』【2022年7月12日~9月9日配信】
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