セクシュアリティに対する先入観を軽やかにいなしながら、映画を楽しむ醍醐味を存分に与えてくれる存在として、アラン・ギロディ監督は唯一無二の存在である。LGBTというタームが広く知られる以前から同性愛を自然に作品に取り入れてきたギロディは、セクシュアリティという主題を前に身構えがちな「一般」の観客をあっという間に武装解除させるあっけらかんとした語り口を持ち、極上のストーリーテリングの中で性的志向に留まらずあらゆる境界を液状化させる映画を作る。
フランス南部の農家で育ったアラン・ギロディは、モンペリエ大学を卒業し、公表されることのなかった小説をいくつか執筆してから映画作りに転じ、1990年に初の短編を監督している。やがて、豊かな自然を背景とした哲学的な要素を含む犯罪映画というユニークな個性が注目され、中編『動き出すかつての夢』(2001年)は第54回カンヌ国際映画祭「監督週間」に出品されて話題を呼び、ジャン=リュック・ゴダールはその年のカンヌで最高の作品と評した。
世界的なブレイクスルー作となった『キング・オブ・エスケープ』(2009)では、43歳のゲイの中年男と16歳の少女の逃避行が描かれた。親や警察から追われる立場の二人は特別な関係で結ばれていく。性的志向や年齢差を超越した愛の可能性が問われている作品であるが、常識からの逃亡(エスケープ)を計るふたりが野を駆けるシーンの躍動感は窮屈な倫理観を突き破る爽快感に満ちていた。そして観客の足元を見事に掬う爆笑のオチが用意されたエンディングでは、追うものと追われるものの立場の違いが無効となり、そこにギロディの才気が凝縮されていたのである。
しかしギロディのセンスに世界が心底驚いたのは、『湖の見知らぬ男』(2013)【1月27日~3月27日配信】によってだろう。夏休みの湖畔で起きた殺人事件を軸とするヴァカンス・スリラーだが、画面の前面に出てくるのは、愛を求める男たちの姿である。湖畔はいわゆるハッテン場であり、出会いを求める男たちが湖畔で日光浴をしては背後の森に入り、相手を探す。首尾よくいけば、夏の幸せなひとときを過ごすことが出来るというわけだ。
来日したギロディ監督による「セックスをポルノから解放したかった」という発言が印象に残る。客観的で乾いたポルノ的セックスとは対照的に、より日常的な営みとしてギロディ監督は愛を描く。しかし、愛の行為はエレガントで美しく描かれる一方で、たかがお互いの体の器官の出し入れに過ぎないという身も蓋もなさをも備えている。それがゆえに、観客に欲望を抱かせることを目的としたポルノと一線を画しているとも言える。湖畔にねそべる男たちの体も、彼らの愛の行為も、あまりにもあっけらかんとしているので、そこに映画が描きがちな性的志向をめぐる葛藤の入り込む余地は一切なく、とことん日常的で「普通」のこととして我々はするりと受け入れることになる。さらに、あっけらかんとした性の解放を歓びつつ、そこに殺人事件を介入させることでユートピアへの楽観を戒め、空間を巧みに用いた不条理スリラーに仕立てるギロディの監督としての力量は見事という他にない。
『湖の見知らぬ男』の好評を得て、カンヌ国際映画祭のコンペティション入りを初めて果たしたのが次作の『垂直のまま』(2016)である。創作に行き詰った脚本家の青年が山に入り、羊飼いの女性と暮らして子を得るが、女性に去られて赤子と残され、そこから奇妙な出会いや出来事に遭遇していく物語である。ギロディ作品に顕著な大自然を背景に、父性や生と死、そして性が見つめられていく。クールベの有名な絵画「世界の起源」を彷彿とさせる大胆なショットに確かに「誕生」を感じる一方で、肉体/セックスをあっけらかんと見せるギロディ演出のマジックは男女間のそれでも変わることはない。
『湖の見知らぬ男』の男性同士の愛の世界の単純な反復を避けたギロディだが、それは彼が同性愛映画の作家ではないからだ。「女性と寝るからヘテロであるわけではなく、男性と寝るからゲイとなるわけでもない、という考え方が好きだ」とインタビューで答えているギロディは、カテゴリー化を嫌う。主人公の青年は、少年を誘った後に女性と関係を持つが、ここで彼がバイセクシュアルであるかというとそうではなく、青年は彼自身のセクシュアリティを生きているに過ぎないのだ。老人の男性と添うこともある青年にはレーベルも境界も存在しない。ギロディ映画において、セクシュアリティは問題提起ではなく、常に普通にそこにあるものとして描かれる。
そして、目下の最新作となるのが、『ノーバディーズ・ヒーロー』(2022)【2月10日~4月10日配信】である。フランスの中央部に位置する山に囲まれた美しい都市、クレルモン=フェランを舞台にした群像ドラマだが、様々な境界の液状化はいよいよ進んでいる。テロを起こしたアラブ系移民に対するフランス人の本音や建て前を背景としている点で現実の社会情勢にかなり近づいており、ギロディには珍しく社会派ドラマの側面を持つと言ってもいい。しかしその実態は痛快にして荒唐無稽であり、物語は、IT業務に秀でた白人の男性が中年の娼婦に一目惚れし、愛ゆえに無料でセックスがしたいと口説く場面から始まる。その男はやがてホームレスのアラブ系移民青年の世話を焼くことになり、妻の商売を認めながら嫉妬深い娼婦の夫の存在が主人公を悩ませることになる。
ここでも、性に対する一般的な先入観は全く無効である。娼婦は無料のセックスに大いに情熱を燃やし、その夫は妻の仕事を認めつつ嫉妬深いという矛盾に苦しまない(嫉妬には苦しむが妻が娼婦であることには苦しまない)。やがて、他の登場人物がさらに物語に彩りを与えて行くが、性的志向や性別や年齢差や国境を超越するエンディングに突入するギロディ演出の切れ味はここでも冴え渡り、セクシュアリズムや移民問題を越え、全ては愛の問題に帰結していく。
しかし、ここで注目すべきは、主人公と娼婦のセックスが必ず何らかの理由によって中断されてしまうことだ。彼らはセックスを完遂することが出来ない。それは、ユーモアの面で映画に多大な貢献をすることになるが、それだけではないだろう。ギロディはあらゆる偏見を笑い飛ばすように見えて、決して楽観はしていない。あっけらかんとした姿勢を貫きつつ、どこかで慎重にブレーキを踏みながら、ゆっくりと進んでいるように見える。決して快楽主義者でないどころか、現実主義者ですらあるギロディは自らの内部の境界はしっかりと見据えているようである。その冷静さに、我々は信頼を賭けてみようという気になるのだ。
JAIHOでギロディの重要作2本が見られるのはとても貴重な機会であり、現代において最も先鋭的な形で性と生を描く希代の作家を発見して頂きたい。