JAIHOの2022年末から2023年にかけてのキン・フー特集には、『大酔侠』(1966)【1月7日~3月7日配信】、『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』(1967) 【12月28日~1月26日配信】、『侠女』(1970,71) 【1月14日~2月12日配信】、『迎春閣之風波』(1973) 【1月10日~4月9日配信】というキン・フー映画を知り、楽しみ、語るためには絶対に外すことのできない武侠映画の伝説的傑作4本が揃った。
どの作品も映画の隅々にまでキン・フーの美学が行き届き、スリリングで躍動的なアクションに満ちた映画的興奮の塊のような作品ばかりだが、邦題という観点から見ると、映画祭上映やデジタルリマスター修復版でのリバイバル上映を除けば、唯一日本で正式に劇場公開されている『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』という題名は、大活劇なのに徹底的に格調高いキン・フー作品にはちょっとそぐわない大仰な邦題だと感じる方も少なくないだろう。実際、映画には残酷なシーンが多いわけではないし、原題に龍という漢字やDRAGONという英語が入ってはいるものの、ストーリーにドラゴンが出てくるわけでも、クンフー・アクションが売りの作品でもない。
実は、『龍門客棧』という中国語原題、『DRAGON GATE INN』という英語原題を持つこの作品は、完成度や面白さといった内容とはまったく関係なく、題名に関していくつものちょっと不幸な事情を抱え、同時にこの一つの邦題の中に、日本における外国映画史(あるいは邦題史と呼ぶべきか)に関する逸話を複数併せ持っている。その意味でも、これは極めて重要かつ興味深い作品といえる。
まずは英語原題の不幸なトラブル。現在見られる4Kリマスター修復版本編のオープニング・タイトルはキン・フーの書による“龍門客棧”という中国語だけが出る。香港や台湾など中国語圏では台詞のすべてに中国語と英語の字幕スーパーが同時に焼きこまれて上映されるが、初公開時にその字幕スーパーを製作した台湾の製作会社が、台詞に出てくる“龍門客棧”をすべて“DRAGON INN”と訳し、さらにメインタイトルを英語にした英語吹替版ではメインタイトルまで『DRAGON INN』としてしまい、キン・フー監督のチェックを通さず完成、ポスターも“DRAGON INN”としたまま世界各国で上映してしまったという。結果、世界中の各種作品紹介文献が、この映画の英語題名を『DRAGON INN』として記録してしまうことになった。
後年、キン・フーの関連書籍やインタビューなどで、『DRAGON GATE INN』こそがキン・フー監督が考案した正式英語題名だということが発覚し、一部の書籍では『DRAGON GATE INN』と表記されるようになったものの、『DRAGON INN』のままになっている文献やデータベースも多く、現状ではどちらも間違いではない正式な英語原題ということになっている。
1992年にはツイ・ハーク製作、レイモンド・リー監督によるリメイク版『新龍門客棧』が製作されたが、こちらの英語原題でもそのまま『DRAGON INN』が採用されて世界に配給され、日本での公開時には邦題まで『ドラゴン・イン』となってしまい、もはや取り返しのつかない状況といえる。
実は中国語映画における英語題名や英語字幕での間違いは昔から非常に多く、スペルミスなどは現在も日常茶飯事だ。特に中国語映画が外国人俳優を使った時のスペルミス率が驚くほど高いのは、アジア映画通なら何度も目にしたことのある“あるある”といえる。
で、本題の邦題である。この作品が香港、台湾をはじめアジア各国で記録的大ヒットとなったのは1967年。その翌1968年、松竹が日本映画とのバーターで上映権を取得、『血斗竜門の宿』という邦題で上映した。だが、公開されたのは北海道と中京地区など一部地域だけで、首都圏では上映されなかったことから、ほとんど記録として残っておらず、観客はもちろんほとんどの映画評論家にも認知されていなかったため、まったくと言っていいほど語られておらず、この中国語圏ではレジェンド級の有名作は、日本では忘れられたというより、完全に無視された作品となっていた。
『血斗竜門の宿』という題名自体、内容そのままで、捻りや凝った意味はほとんどなく、かなり安直に付けられたことが感じられる。おそらく宣伝もほとんどされず、新作の併映作品としてひっそりと上映されたのだろう。最低限ポスターくらいは作られたと思うが、私はそれを見たことがないし、様々な文献やネットを探してもその画像を見つけることはできていない。
“血斗”とは、つまり“血闘”。“決闘”の当て字で、決を血に変えることによって凄惨さや迫力を増す手法。映画の題名としては外国映画よりも日本の仁侠映画に多く使われていた言葉で、古くは『血斗水滸傅 怒涛の対決』(1959)から、『日本侠客伝 血斗神田祭り』(1966)、そのものズバリの『血斗』(1967)などがあり、1968年にはマカロニ・ウエスタンの『血斗のジャンゴ』(1967)も公開されている。任侠ものでは他に『新網走番外地 流人岬の血斗』(1969)、『日本女侠伝 血斗乱れ花』(1971)、ジョン・ウェイン主演のハリウッド西部劇に『100万ドルの血斗』(1971)と、60年代後半から70年代前半に、映画題名として多用された単語でもあった。
そもそも“決闘”の“闘”を“斗”と書くのは、西部劇や時代劇の題名で映画創世記から行なわれてきた伝統といってもいい表記で、『OK牧場の決斗』(1957)、『ガンヒルの決斗』(1959)、『続夕陽のガンマン/地獄の決斗』(1966)など、数多くの作品で使われてきたが、70年代後半以降は“決闘”と表記することが一般的となっていった。
原題では“龍門”となっている“龍”を略字の“竜”にして、“竜門”としたのも60~70代の風潮。『昇り竜 鉄火肌』(1969)、『怪談昇り竜』(1970)、『ゴルゴ13 九竜の首』(1977)など、現在であれば“龍”と書く可能性が高い部分の多くに、あえて“竜”が使われていた。現在“竜”は、恐竜の“竜”か、個人名で使われるくらいで“龍”の略字 として使われることはまずない。『血斗竜門の宿』は、まさに1968年ならではの邦題だったのである。
その後、1973年12月に封切られたブルース・リーの『燃えよドラゴン』(1973)が爆発的ヒットとなり、それに続き日本で香港、台湾製のクンフー映画が熱狂的人気を呼んで、いわゆる“ドラゴン・ブーム”が巻き起こる。1973年12月から1974年12月までの1年間に公開された香港、台湾製クンフー映画の数は29本、ブルース・リー主演の『ドラゴン危機一発』、『ドラゴン怒りの鉄拳』をはじめ、『片腕ドラゴン』、『帰って来たドラゴン』、『嵐を呼ぶドラゴン』、『吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー』、『子連れドラゴン女人拳』、『武道大連合 復讐のドラゴン』、『地獄から来た女ドラゴン』などなど、その邦題の多くに“ドラゴン”という言葉が使われた。
そんな中、この作品の権利を引続き持っていた松竹は、その“ドラゴン・ブーム”に乗じて、“残酷ドラゴン”というかなり強引なフレーズを追加し、『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』という改題で、1974年9月7日に再公開する。当時、ブルース・リーを中心とした香港クンフー映画の書籍が多数発売され、活字として題名が記録されることが多かったため、その後これが日本での正式題名として定着することになった。
ただ、その際の再公開も全国一斉規模ではなく、やはり添え物の1本としてひっそり上映されただけだったため、この再上映時のポスターもほとんど残っていない(実際に作られたのかさえ定かではない)。
当然話題になることもなく、当時から観客の評判も評論家の批評もほとんど見ることはできなかった。 東京ファンタスティック映画祭’85や1989年の胡金銓電影祭などで作品が上映され、日本でキン・フーが香港映画界の大巨匠としてまっとうに認知されるのはそれから10年以上経ってからのことになる。
『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』以外、キン・フー監督作品はそのほとんどが中国語原題そのままでビデオ化やディスク化、再上映がされてきたが、もう1本、1992年の第5回東京国際映画祭アジア秀作映画週間で『ペインテッド・スキン』の題名で上映された『画皮之陰陽法王(PAINTED SKIN)』だけは、レンタル店向けVHS発売時に『ジョイ・ウォンの魔界伝説』という題名がつけられ、『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』(1987)などで人気だったジョイ・ウォンの主演最新作として売られた。キン・フーというネームバリューがレンタル市場にはまったく通用しなかったビデオバブル期の話である。同作は正式な劇場公開はされず、その後ディスク化もされておらず、今ではVHS題名はほぼ忘れられ、一般的には『ペインテッド・スキン』として認知されている。
『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』は、方向性の違うインパクトはあるものの、作品の雰囲気や素晴らしさをほとんど表現できていない映画史上屈指のトンデモ邦題のひとつではある。だが、この題名には日本の映画史が確実に刻み込まれている。映画史が邦題で作られていく顕著な例のひとつである。